重苦しいコートの前ボタンを外す。
癌陀羅に来てすぐに通された、与えられたこの自室に置いてあったものだ。
ここの者は皆、似たようなこの軍服を着ている。
長椅子にコートを放り投げると、蔵馬は正面の窓にかけられた厚地のカーテンを開けた。今日の魔界の空はおとなしい。薄明るい月の光さえ見える。
寝台に身を投げ出して、大きく息を吐く。ふと、人間界の自分の部屋から見える月を思い出した。
目を閉じると、今もあの部屋にいるような気がする。その反面で、人間界での生活が、まるで何百年も昔の出来事であるような錯覚も、同時に覚えてしまう。
寝台に寝転がって、うつらうつらと微睡んでいるうち。
コンコン、と、扉を叩く音がした。
(誰だ?)
ここに来てからというもの、この部屋に誰かが訪ねてくることなど―毎朝同じ時間に来る、食事や洗濯等の世話を受け持つメイド以外―、一度もなかった。
上体を起こし、耳を済ませて気配を感じ取ろうとしていると、蔵馬様、と、か細い女の声がした。
「黄泉様がお呼びで御座います。」
細く扉を開けてみると、白い着物を着た女が立っていた。ここに居る者たちの世話係として、何度か見かけたことのある女だ。
「黄泉が?どんな用件で、」
「ご用件については、私はお聞きしておりません。部屋まで来るようにとだけ。ご案内致します。」
美しいが抑揚のない声でそう告げる。瞬時に、蔵馬は考えを巡らせた。ここでは一瞬の隙が命取りになる。
鯱を倒し軍事参謀総長となってからというもの、黄泉の部下たちは皆、蔵馬に恐れをなすようになっている。今更奸策を練って、蔵馬を陥れようとする輩が居るとも思えない。
黄泉が呼んでいるというのは、嘘ではないのだろう。
―しかし、いったい何の用で?
「判った。すぐに行く。」
黄泉の自室は、邸の最上階にあるようだった。
近郊の街を見渡せるガラス張りのエレベーターでずいぶんと上り、薄暗い廊下を長いこと歩いた。ところどころに灯るランプでぼんやりと照らし出されている廊下には絨毯が敷かれ、足音さえ響かない。驚くほどの静けさ。
女が歩みを止めたのは、先刻からずっと続いている、 何の変哲もない白い壁の前だった。
蔵馬が不思議に思っていると、女が懐からペンライトのようなものを取り出し、壁に向かって光を投げかけた。光の当たった部分から、徐々に何か黒い影のようなものが現れ、ざわりざわり、広がっていく。呆気に取られ眺めていると、広がりゆく黒いものは、蔵馬の背丈の二倍はあろうかと思われる大きな木製の扉を、徐々に形作っていった。
「黄泉様。お連れいたしました。」
扉の横に取り付けられた装置―インターフォンのようなものらしい―に向かって女がそう告げると、低い音がして扉の鍵が開いた。
「では、私はここで。お部屋にお戻りの際は、またご案内いたしますので、お申し付け下さい。」
女は硬質な声でそう云うと、踵を返し、薄暗い廊下に消えていった。
ガチャ
重たそうな木の扉が自動的に開く。蔵馬の身体が一瞬強張った。部屋の中に歩を進める。
初めに目に飛び込んできたのは、扉の真正面の大窓だった。蔵馬の部屋の間取りと同じ。ただ、部屋の広さは、蔵馬の部屋の何倍もあったけれど。
窓際の長椅子には、黄泉が腰掛けていた。窓の外を見上げていたが、扉の音に気付いて蔵馬の方へ顔を向ける。
「わざわざすまなかったな」
立ち上がりながら黄泉が云った。軍服ではなく、白く柔らかそうな生地の着物を着流している。
「なかなか厳重な作りだな。あんな扉の隠し方は初めて見た。」
「誰かに侵入されるのを警戒しているという訳ではないがな。完全にプライベートな空間を作りたかったというだけさ。」
部屋の中を見回しながら、蔵馬は長椅子の方へ近付いた。風変わりな部屋だ。部屋の右半分が洋室、左半分は床が一段高くなっていて、畳敷きの和室になっている。和室側では行燈が柔らかな灯りを零しており、部屋の照明はそれのみだった。階が高いからか、部屋に入ってくる月の明かりが、蔵馬の部屋のそれよりも強いように感じる。
「それで、そんな完全なプライベート空間にまで呼び出すなんて、何かあったのか。」
蔵馬の言葉に、黄泉が首を傾げる。
「何かとは何だ。」
「いや…、こんな風にわざわざ部屋に呼び出すなんて、何か公には出来ないような事態が起こったのかと。」
口籠もりながらの蔵馬の言葉に、黄泉は一瞬驚いたような表情を浮かべ、そして声をあげて笑った。
「何だ、警戒していたのか。それは済まなかったな。要らぬ心配を掛けたようだ。」
途端に崩された黄泉の表情に、蔵馬は拍子抜けしてしまう。
「俺だって四六時中、あれやこれやと良からぬ策を練っているわけではないさ。今日はあんまり空が静かで美しいから、ゆっくり酒でも呑みかわしたくなっただけだ。」
穏やかな調子でそう云ったあと、ほんの少しだけ、黄泉の妖気が変わったことに、蔵馬は気付いた。
「昔の仲間じゃないか。」
そう云って微笑んだ―何の感情も見いだせないような微笑み―黄泉から、蔵馬はゆっくりと視線を逸らせた。
トクトクトクトク
テーブルの上に並べられた背の高いグラスに、酒が注がれる。先刻の着物の女が、黄泉の言い付けで運んできたものだ。
「しかし、そういえばお前は体がまだ少年なのだったな。酒は平気か?」
心配そうな風を装ってみても、口角が上がっている。揶揄っているのだ。
「莫迦にするな。」
蔵馬は差し出されたグラスを受け取ると、緋色の液体を喉に流し込んだ。唇にほんの少し色が残る。
「変わらんな。」
黄泉が云った。
「昔もそうだった。最初の一杯は、そうやって呷(あお)るんだ。」
そうだっただろうか、人間界に行ってからは、酒を飲む機会など殆どなく、もう自分でも忘れてしまっている。
「お前は、変なことを覚えているんだな。」
「ああ、覚えているさ。お前のことなら、何でも。」
意味ありげな黄泉の言葉に、蔵馬は口を噤んだ。少しだけ開いた窓から入る風が、薄布のカーテンを揺らしている。いつもとは違う、心地の良い魔界の風。
「例えば、眠る時は身体を丸めること、とかな。」
遠くを見るような表情で、黄泉が口許を緩める。
「……そうだったか?」
「そうさ。覚えていないのか?」
話すことはいくらでもあった。国王と軍事総長としても、また長い間会うことのなかった「昔の仲間」としても。
「お前は美しいな。昔と変わらない。」
「何故そう思う?」
見えてもいないのに。
「判るさ、」
そこでふと黙ってみても、そのあとに続く黄泉の言葉は、聴くよりも明白に、すでにそこにあった。
お前のことなら、何でも。
ふと、話がとぎれた。沈黙が訪れる。予め、何かに定められていたかのような静寂。
長椅子の隣に座った黄泉に、蔵馬が手を伸ばした。閉じられたままの双蓋に、指先で触れる。
「本当に見えていないのか。」
黄泉は慎重に、蔵馬の様子を探った。心拍数、血流、体温。酒のせいで多少の上昇はあるが、どれも正常範囲内だ。
「ああ。何だ、見えない振りをしているとでも思っているのか?」
蔵馬は返事をしない。しないまま、まるで輪郭を確かめるかのように、指先をつつ、と頬、唇へと、ずらしていく。
「?」
とりあえず黄泉はされるがままになっている。
蔵馬の意図が読めない。
蔵馬の唇が、黄泉の目蓋に近づいた。
一瞬の出来事。
「……。」
「……。」
「……見えるようになったか?」
らしくもなく言葉を失った黄泉に、蔵馬が言葉をかける。
唇に落とした指を顎にかけ、蔵馬は黄泉の顔を引き寄せた。そして左の目蓋を舐めたのだった。
「……何を莫迦なことを。」
「何だ。これで見えるようになったら面白いのにな。」
今まで聴いた事もないような悪戯めいた声色で、少年のように―事実、蔵馬は身体だけとはいえ少年なのだが―云う蔵馬に、黄泉は笑えばいいのか、怒ればいいのか、何を云えばいいのかすら判らずに居た。
「やはりその身体では酒はきつかったのではないか。もう酔っているのか?」
「別に。酔ってなんかいないさ。」
「じゃあ何のつもりだ。」
判っているくせに、と、黄泉に聞こえるか聞こえないかの小声で、蔵馬が呟いた。
「やはり俺は元の狐のままだね、黄泉。魔界の生臭い空気に、身体がずっと疼いてたまらないんだ。」
両の指先を黄泉の首筋の辺りに絡ませたまま、耳元で蔵馬が囁く。
蔵馬の纏う空気の、異変。
指先が冷たくなるほどの驚きと、身体の奥底から突き上げるような高揚を、黄泉は感じていた。
「誰かに噛み付きたい。誰かに噛み付かれたくて仕方ない。殺して、殺されたい。」
蔵馬の身体が纏わりついてくる。
人間特有の、鼻腔を擽るやわらかな匂い、その中からはっきりと立ち上る、何百年と探し続けたたった一匹の妖怪の、懐かしい空気。
どれほど姿形が変わろうと、性根はいつまでも変わらぬ……狡猾な狐。堕ちる寸前の理性を、黄泉は押し留めた。
――これではあの時と同じになってしまう。
「何だ蔵馬、これも何か策があってのことか?相変わらずだな、考えることは。」
わざと、茶化したような言葉を続ける。
「鯱以外にも、俺がお前を重用するのを面白く思わない奴はまだまだ居るからな。この上俺がお前に手を出したなんて知れたら、それこそ俺は反乱を起こされてしまうかもしれん。」
昔とは違う、色事にすら慎重になっている黄泉に、蔵馬は首筋にそのまま噛り付こうとしていた口を開いて、言葉を紡いだ。
「俺から仕掛けたんだ、もう喋るな」
「……。」
黄泉が一瞬、身体を強張らせる。はっきりと判るほど、妖気の流れが大きく揺らいだ。
様子がおかしい。
異変に気づいた蔵馬が黙っていると、やがて黄泉は、ククク、と、耳障りな―少なくとも、蔵馬の耳にはそう響いた―笑い声を立てた。
「昔、同じ科白を云ったな、お前は。」
不愉快そうに黄泉を睨み上げる蔵馬の、コートの襟元に手を掛けながら、黄泉は云った。
「ああ、また、お前はおかしなことばかり覚えていると言われてしまうかな。」
今度ばかりは、蔵馬にも覚えがある。
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